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​お念仏って呪文?

ストーリー

  •  {お念仏の教えって呪文?」 もちろん「呪文」では有りません。なぜなら、呪文や迷信は、自分を外に置いて、自分の願いや欲望を安易に叶えようとする行為。

  •  「お念仏」は、仏様のお救いのお名前。または、仏様のお救いの願いと功徳を満たした、仏様のお名前。自分自身の心や体を深く観察して、人生の苦しみ・悩みを解決する道に気づかせる。大いなる安心とポジティブな視点で、苦悩する人々への平等救い・慈悲に生きる。

  • また、自分を中心とするのでなく、仏様の願いを受けて、他の人々と共に生きる平等の慈悲を実践する教え。大いなる安心と地に着いた視点での実践で、お互いの幸せを築いていく。これが、お念仏を称えるという「称名念仏」の教え。呪文では人や社会は救えませんね。

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葬儀や法事は誰のため!!

「死んだら終い」と思う方があります。しかし、本当にそうなのでしょうか?自然の草木を観察すると、毎年新しい芽を出すのを多く見かけます。それは、ある意味子孫を残す自然界の姿です。また、畑仕事などの自然の中で育った方の中には、自分の「死」を淡々と受けとめて行かれる方があります。反面、都会の人工的な環境で育った方の多くは、「死」を絶望と捉え、あきらめを込めて「死んだら終い」と受け取っておられます。

 お釈迦様は、すべてのものは、自然界の道理に従って、「生まれ変わり死に変わり」を繰り返していると示されています。また、生まれ変わる先の世界が解らない方は、大きな不安を懐きます。その不安は、死のご縁に接するとき、より一層大きくなります。

 その意味で、今のいのちがおわるとき、新しい世界に生まれることが出来ることは、大きな安心となります。また、その安心は、今ある命を生きる上で、大きな安心ともなり、他の人と共に平等に生きようとするエネルギーとなります。

 更に、家族が「死」を迎えられたとき、ささやかでも「葬儀」をして、別れの悲しみを癒やされると共に、その方の生き様を聞かせていただくとき、自身の人生におおきな道標(道しるべ)を頂くことができます。

 その一つとして、すべての人々の安心と幸せを願う仏様の教えに出遇うことがあれば、より一層意義深い事となります。ご法事(年忌法要等)も、それぞれの人生を歴てきた私が、仏法を聞き、安心の道標を得ることは、何にもまして大切なことと思われます。みんなが、仏様のお慈悲の教えに出遇い、お念仏しながら安心の人生を生きることは、仏様のみならず、お念仏をする私にとっても、希望が持てる、最も大切なことと思われます。

 しかし、人生の様々な悩みを経験するとき、自分の在り方に気づかされることなく、安易に「占い」や「霊感の教え」(献金による霊的功徳や霊感あらたかな品物の購入)や、「呪文」に頼ることが多いのが、私たちです。

 冷静に、科学的に考えれば、「病気が治る」「障害が直る」「お金が儲かる」「幸せになる」「社会が善くなる」

等の勧誘が、因果の道理のない意味のないことだと云うことに気づかされます。ましてや人生の先を予知する術は、お釈迦様でもされなかったことです。ご本人自身に限られますが、予知できるとすれば、現実を直視し、地に着いた行動を繰り返し歩む中、直感的に身につけた「現実の変化」に気づく能力なのかも知れません。ましてや、他人の人生の未来を読むことなど出来るはずがありません。このことは、仏教の修行僧でも困難で、他の霊能者?においては、全く現実的ではありません。また、「霊能者」の占いには、確率の問題やマジックと同じような種明かしが必ずあります。因果の道理がないことは、如何なる現象が起こるとも虚構か、たまたま別の道理によって創られたものと言えます。また、安易な献金や霊的商品の購入は、功徳が無いばかりで無く詐欺に当たります。安易な誘いや教えにすがるのは、危険です。くれぐれも、ご注意ください。

​     カムル砦(北インド海抜2800M)

        バスパ川の上流の村にある砦

        7層建の建物

      ​ 

霊感商法や占いの裏側!!

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​宗教ってなに?

 「宗教ってなに?」て良く聞かれます。でも、一般的に考えられているような、すべてに共通する「鰯(イワシ)の頭も信心から」というような「信心の宗教」は有りません。なぜなら、日本においては明治時代に「宗教」と名付けられて以来、明確に定義されたものが無いからです。

宗教には、①単なる自然崇拝から起こったものや②地域の霊的なものへの信仰。③様々な神や祖先への崇拝。また、

④世界的な広がりを持つ、高度な教義(教えの大系)を持つものや、⑤詐欺まがいの企業的(集金集団・組織)宗教。

等さまざまです。

 しかし、「宗教」という言葉は、仏教の書物(碧巌録など)より取られたもので、「ものの考え方の中心(宗)とすべき教え(価値観・ものさし)」のことをいいます。基本的な仏教やキリスト教は、本来「すべての人々が平等に救済される教え」です。その亜流として近年に起こったものの中には、この趣旨を逸脱しているものが多く見受けられます。平易にいえば、「みんなが平等に幸せになれる教え」です。そのための価値基準となるのが、それぞれの教え(教義)です。また、その教えは、もちろん他の人々との共生を目指すものです。

 殊に、仏教は、道理の宗教と呼ばれ、科学的な手法の物理学や宇宙科学、医学・心理学、社会学など(自然・社会の原理)とよく似た内容を持って、道理に従って自己の救いだけではなく、すべての人々の平等の救いを目指します。

​ また、自分中心のものさし(自己の欲望や願望である意味独善的な・共生的でないものさし)から、仏様中心へと転換する(道理に基づくすべての命の平等の救済への願い・ものさし)ことで、すべての命と共生する価値観を持つ宗教です。

 呪術でも迷信でも、企業的(マインドコントロールによる

霊感を利用した詐欺)なものでなければ、幸せを願い実現しようとする宗教ですが、現実の問題として、道理に基づかなければ、絵に描いた餅で、救いはありません。

 一人一人の人生における様々な苦悩の解決の道は、根本的には、道理に従って直視していくと、呪術や迷信などは、基本的な仏教などの教えとは、全く違う宗教だと気づかされます。

 一度、社会や自己の人生の見直しの為のものさしとして、本物の仏教・お念仏の教えに触れてみることは大切ではないでしょうか。

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